![]() ↑トキイロヒラタケ/7月16日の9時30分ころ/柏崎市にて。 今回の写真は「中越沖地震(16日10時13分)」の直前といってもいいようなタイミングで撮影された。 前日は相棒と妙高だったがそのときの残りのフィルムを使い切るのに都合のいい被写体を見つけたものだと、直後にくる大地震も知らずに単純に喜んでいた。 ところで、この春から近郊にある山林のいっかくを知人から借りてきのこの栽培実験場にしている。これまでにも別の個所を借りていたのだが車が間近まで入らなくて不便だったので、こんどは車の通る道ぞいに新たに設けたわけである。自称 「きのこ山」 と呼んでいるが原木・ほだ木での数種類のきのこの栽培で、種菌・種駒から自家培養して試みている。 その 「きのこ山」 の見回りを終えて山道の手入れをして、さて帰ろうかというときにトキイロヒラタケを見つけた。藤つるの枯木だった。これまではクルミの枯木でばかりで藤つるでははじめてのケースになった。もうすこし上の方には白いタイプがあってまるでウスヒラタケのようだったが、それもトキイロヒラタケなのであろうと勝手に解釈した。 10時に妻と買い物に行く予定だったので急いで撮影をすませ工場に戻った。そこから車で7分ほどで自宅なのだが、あと100メートルほどで到着というときに車が左右に激しく揺れた。同時に見えないなにかの強い力がハンドルを支配した。車は18万キロも走行したひどいボロ車なので、いつ買い換えるべきかなどと考えていた常日頃だったから、とっさに車体が割れたかタイヤが外れたかと一瞬に凍りついてブレーキを強く踏んだ。 10メートルほど前方で対向車が同じように異様な急停止で止まる様子が視界の端に見えていた。歩道では人が四つん這いに這っていた。とっさに地震だとわかった。それもとてもハンパな震度じゃないと直感した。3年前の中越地震も経験しているが、その比でないことは揺すられた衝撃の強さが物語っていた。 とてつもない大地震がきたんだということが急速に意識にのぼると頭のなかが真っ白になった。 平穏なはずの住宅地の空間に数秒の間、シーンと凍りついたような緊迫した空気がはりつめたような気がした。 すぐに気をとり直して家まで急いだ。じきに角を曲がるとその先にちょうど妻が玄関の扉をあけて出てくるのが見えた。見たこともないような青くひきつった顔だった。しかし無事だったことがはっきりして膨らんでいた不安がいっきに解消して安堵感が訪れるのを意識した。近所の家々から次々とひとが表に出てきた。 家のなかの散乱した様子をざっとたしかめ車で一緒に外出している娘と義母に電話してみた。ケータイには繋がったが応答がないので不安のまま電話を切ったがすぐに電話が鳴って無事が確認できた。 今度は工場であった。木造の安普請だからもしかして・・・と、ある程度の覚悟をきめたつもりで車を走らせた。途中にある石材店の灯篭や墓がことごとく転倒していた。民家の石塀や石柱もひっくり返っていた。道路は至る個所で陥没や隆起が起こっていた。不安はひろがるばかりで工場を見ることが恐ろしくもあったがボロながらちゃんとまっすぐに立っている建物を見たときには心底からほっとした。これで救われたと思った。 しかし工場の内部はめちゃくちゃに散乱していた。軽めの機械は転倒して重い機械は50センチも水平移動していた。棚はほとんど倒れ資材が激しくぶちまけられていた。しばらく呆然とただ眺めてばかりいた。 @電気 ・3日間停電した。一部の地域では停電がなかった。 ・テレビが見られないので市外・県外にいるひとの方が早くから被害のすごさを知っていた。 ・携帯ラジオでの地域放送「FMピッカラ」と全戸にある行政防災無線受信機が情報源だった。 ・夜はローソクと懐中電灯の明かりで在り物の食事をしたが落着かなかった。 A水道 ・わが家の地域では一週間後に復旧した。 ・わが家の場合、敷地内で漏水があったために、さらに一週間復旧が遅れた。 ・水が出るまでトイレの水は郊外を流れる農業用水路の水をポリタンクに汲み置いて使用した。 ・ペットボトルのミネラルウオーターは市外の仕事関係から差し入れとお見舞いに沢山もらった。 ・歯磨き・髭剃り・洗顔に必要な水が最低4リットルであることが、はじめてわかった。 ・頭から足先まで石けんで洗い流すのに必要な水が最低30リットルであることが、はじめてわかった。 ・水の入った水タンクやペットボトルを日なたに置いて洗顔や行水用に温める工夫が見られた。 Bガス ・わが家の地域では3週間後に復旧した。 ・風呂は震災の翌日から自衛隊架設風呂があった。しばらく後に企業の寮などの奉仕提供が出てきた。 ・これらは行列ができるので自宅での行水とのどれかにするかが毎夕の課題になった。 ・しかし週に2回は近隣の市町村にある温泉施設まで出かけた。市民だと免許証や健康保険証を提示し て無料にしてもらえた。 ・これらも初期には行列ができた。風呂場内では洗い場が空くのを待つ裸のヘンな行列もできた。 ・そんな「風呂難民」が初期のころはたぶん数千人の単位で大移動していたと思える。 ・「風呂難民」は同時に「洗濯難民」でもあって、近隣の市町村にあるコインランドリーに殺到した。 ・食堂などで再開が早期だったのは燃料がプロパンガスだった。 ・ガス復旧のために市外県外から2500人の業者の応援が続いている。(8月10日現在、全市の約1割に あたる約3400戸がまだ復旧してない) C食料 ・停電のために冷蔵庫にあった食材は翌日夕方にぜんぶ廃棄した。 ・避難所でもらうパンはすぐに飽きた。パンは当初は甘いパンばかりだった。やがておかずパンも増えた がやはり「仕方なく食う」という感じだった。 ・同様のコンビニ風おにぎりは意外に飽きなかった。普段はコンビニのおにぎりは味気ないものだが。 ・自衛隊の「炊き出し」はあったかい出来立てだが、こういうのもなんだけれど、あまりうまくなかった。行列 のために30分は並ぶことになるので、いろいろと用があるなかで、それだけ待つ価値があるかどうかな どと考えてしまった。行列ができずすぐにもらえるおにぎりやパンの方がいいと思った。 ・スーパーは2.3日後には再開した。その当初の弁当類は量も少なくすぐに売り切れたがやがて増えた。 ・炊き出しなどの食料や物資をもらうことには、なんとなく抵抗感があった。 ・それはなんだか「物乞い」になったような感じがするのと、被災者には違いないけれど程度は軽い方だし 家を失った人たちと同等の扱いを受けることに気後れがするのだった。 ・また、いつまでも被災者づらなどしてないで、はやく自立しなくっちゃといった気持もあった。 ・その一方、スーパーに行けばお金がかかるが、もらいに行けばタダだし・・・といった葛藤も正直なところ あった。あさましくなるもんだと思った。 D建物や塀が倒壊したわりには死傷者の数が少ないような気がした。その原因を考えてみると ・連休の最後の日で、家でのんびりしていたひとが多かったのでは。 ・倒壊は空家や空家のあとの物置や蔵も多かった。 ・倒壊は築後50年以上のような古屋が多かったが、必然的に子供がいるような若夫婦は住んでいなくて 老夫婦かあるいは夫婦のどちらかだけが住んでいたという結果ではないかと思った。 ・10時13分という時間は休日としては出かけるのにすこし早い時間だった。 ・塀や灯篭が多数倒れたのに下敷きになったケースがないのはこの時間がよかったのでは。 ・休日だった会社が多かったのがよかった。 ・平日であれば機械や設備に挟まれたり下敷きになったケースがもっとあったと思える。 ・同様に家族がばらばらだからお互いに安否の確認でパニックになっていたと思える。 わが家の場合、娘と義母(つまり孫と祖母)は祖父の墓参りにでかけていた。 <その時>は墓苑の駐車場に車をとめた瞬間だった。 車体が激しくゆれたので娘は気付かずに穴に落ちたと思ったそうだ。義母の方は、自分より先に孫が急に頭がおかしくなって、無意味に車を激しく揺らしているんだと思って、ぎょっとしたそうだ。 次の瞬間に目の前で墓石がごろんごろんと倒れた(市内の墓石の6割が倒れたそうだ)。 わが家の墓も見事に倒れたので、もし1分でもはやく着いていれば石の下敷きになっていただろう、じいちゃんが守ってくれたんだと感謝していた。 知人などの話によると、みな偶然にも外に出てタバコを吸っていたとか日陰で休んでいたとかで機材やガラスケースの下敷きにならずに済んだという幸運ばかりだった。また、車をとめた目の前で道路がくずれてガスがかげろうのように立ち昇るのを目撃した知人もいる。 相棒の家には当日の午後に行ってみた。庭にシートをひろげて夫婦で休んでいた。子供らは車のなかにいた。家のなかがめちゃくちゃなのと激震の恐怖が尾をひいて家のなかに入れない状態であった。 市内の現在はこわれた家の撤去や修繕や道路の補修などで、ある意味で復興の活気にあふれているといってもいいような情況になっている。家が倒壊した人たちは現実の問題に直面する時期になった一方で、いろいろな業種で、とくに土建業では、不謹慎な表現ではあるが、陰では「神風」が吹いたと言われているのも現実である。 |